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やま猫SOMETIMES

2009年に亡くなった漫画家・エッセイスト、やまだ紫のブログを移植しました。

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みぞれ雪

 京都はここ数日、降ったり止んだり晴れ間もあったりの雪の日が続いている。比叡山の頂上あたりはさすがに白く雪をかむっている。
出かける用事も続いているので、帰りの早い日は買い物をして、さぼりがちだった料理をする。
 京都は食材が新鮮でおいしいので、簡単な手間でおいしいものが出来る。
 例えば、シメジを出し醤油にからめて焼くだけできのこの旨みが楽しめる。釜揚げしらすに九条ねぎにみじんを混ぜて天ぷら、それをだし醤油におろし大根でいただく、おいしいぞ。
 もともと料理は好きな自分だったけれど、「更年期」や「鬱」を経験してから何も出来なくなった期間がある。ことに、子育てが終えて子供達が手元を離れていってから、自覚のない暗い谷間に入っていっていただろうと現在では分析できる。
 若さや何かに夢中になっている我が子たちにもいつかこんな日がくるのだろうか。そういうことを我が子が手元から巣立っていったときからいつも心の隅で気にかけている。
 私の同年齢の知り合いにも、日々をどう過ごしたらいいのかと悩んでいるひとも案外いる。そしてその人に的確な助言もできないのだ。若い時代の自己を確信的に過ごす、それがなんらかの助け舟になりうるのでは、とおもうが、なかなかそうもいかない。
「我が子だけでも、しっかり育てる」「子供は常に親を同等の生き物」だととらえがちでもある。それは子供という姿だけ小さくて、言葉もつたないだけに、まわりの大人が寄ってたかって面倒をみたくなる生き物だからだ。自分たちが「子供」だったころを考えて見ればいい。小さな体の子供の内側はあらゆる「欲望」に翻弄されている。それらを自らの「親」というガラス越しにみる、人生のはじめに反抗する対象が「親」なのだ。
 おろかな「親」はこの得体の知れないちいさな生き物にかしずき、甘やかし子供をバカなままそだてていく。反対にみっともない子供のままでおくまい、そうする事はそのままその子の不幸に繋がりがちなのだと学習を続けた親は知っているからこそ、いちいち「それはちがう」と説教すると「うるせえ」「関係ないだろ」と壊れていく場合もある。なにをどう言っても小さな自分の世界のみを「是」として挙句の果てに悪態をついて、産み育ててきた親に後足で砂をかけて行く子もある。砂をかけるならまだましなのかもしれない、昨今は簡単に親兄弟を殺す動物以下の生き物もいる。
 それは、天に唾を吐く行為だ。我の吐いた唾は我に帰ってくる。また「天」は「神」を代言する言葉でもある、日本人はヤオヨロズに神が宿る、という万物信仰をしてきた。それは人の知性に目覚めたはじめの人々の素直な「感謝」だった。
「ありがとう」とう言葉より「うるせえよ」的に親をないものとするほうがその人間にとっては都合がいのだろう。自分の曲がった過去を正視することが出来ないからだ。自分の悪行をいまさらあばかれるくらいならなかったこととして切り捨てれば、その場は通り過ぎることができる。おのれの口をぬぐっていればだれも知らない、とおおくの人間はおもう。
 けれど卑劣な行いをしたことを「自分と神」が知っている。恥を知るということはこれに気が付けと太古から問われていることなのだ。その中には私自身も入っている。
 それらの意味で、私は死ぬまで学びを続けたいと思っている。たとえ死の床について脳死のような状態になったときも魂が体から抜けてもだ。
 最近、「ガロ」に関わらず知己の表現者が亡くなっている。自分の目の前にも「死病」とむきあっている連れが居る。日々を刹那のおもいにかられていながら普通に生きようと互いにしている。「努力して生きている」のだ。買い物に行き、台所で料理をし、互いに「おいしいね」といって笑う幸せが有難い。 
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